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ふ
画家がりんごを描くとき、それはりんごを描いているのではなくて、りんごを描くことによって現れる「なにか」を探っているのだ。
また、りんごという言葉を書くとき、りんごの形をイメージさせるのではなく、それを書くことによって現れる「なにか」を目指している。
つまり、りんごの絵や文字はモチーフなのであって表現の目的ではない。
ここに1本の線があるとしよう。
この線は、りんごを描く(書く)ための線だろうか、それともただ単純に何も意味しない純粋な線なのか。
仮に、紙の上に真横に伸びる一本の線は、地平線に見えたりもするし、漢字の「一」にも見えるだろう。ヘビに見えるかもしれないし、四角形の一辺に感じられることもあるかもしれない。
形はイメージを生む。
イメージをとらえたら、今度はそこに意味を見つけ出そうとする。
私たちは意味をいつも求めている。
どうしてだろう。
純粋な線があるのなら「純粋な見方」というものは可能なのだろうか。
知覚における「純粋」ってなんだろう。
(日下部 一司)
墨で書かれた「ふ」は、大阪美術専門学校での授業「プレゼンテーションⅠ」で行った作業の一部である。
[参加者/岡村絵理・日下部 一司・西﨑大貴・松下茜]
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