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日下部 一司 展

「366日」

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 過去に作った作品が破損したり変色したり、あるいは自分の作品として今はもう認知したくないような状態が訪れている。

1975年に作品発表を始めて、それから今年でもう41年経つ。そりゃそんなに時間が経つなら物質も自分の感覚も変化するだろう。

自分の扱う素材はガラクタばかりだし、人体は長くてもたかだか120年くらいしか持たないらしいから双方とも年を経るにつけ変化するはずだ。

でも、陶磁器などの場合は非常に堅牢なようで、先日ある場所で1000年近く前の陶器の遺物を手にとって見せてもらう機会があった。形こそ崩れているが、それは恐らく当時のままの質感と色彩で、なんだか不思議な気分になった。

作品は自分の体と脳が関わった痕跡である。身体は生きていて、生きている限り変化する。だから、今の自分が過去の自分を認めがたい状態もやってきているのだろう。時の経過とともに作品は加筆したり、修正したり、作り直したりすべきだとも思う。

「作品」は「品」だけれど、本当は「品」の体裁を持たなくて良いと思っている。

自分の身体が見つけた大切なもの・・・それを具体化する装置を「作品」と呼ぼうと思う。

ついでに言うなら、装置とは「物」ではない。音であったり匂いであったり、文章であったり、言葉であったり、夢であったり触覚や視覚であったり、自分が自分であると感じる態度であったりする。

このWeb美術館でできることは、そういう「品」ではないものを意識して提示することであろう。

今年はうるう年、今日から366日間 それを試みようと思う。

2016年4月1日

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学生だった頃、雑誌の付録で100年間分のカレンダーを手に入れたことがある。
一枚の紙に100年の日にちが小さな文字で印刷してあった。
数字だけの一枚の紙だったけれど、これから先の自分の未来とその終焉の日がそこに記されていて怖かった。
あのとき見たカレンダーにあったうちの「一年」が今日で終わった。
毎日一枚の写真をここに掲載したが、終わってみるとずいぶん早かったと思う。
100年もきっと早い時間の流れなのだろう。

写真のアスペクト比に最近特に興味を持っている。
風景が比率によって変わって見えるからだ。
面白いといつも思う。
自分の眼と被写体までの距離、位置が写真をつくる。

Web上展覧会は終わったが、写真は終わらない。
明日も同じように四角いかたちで風景を見ることになるだろう。
この地球の風景も、変化こそあれ 終わりはないはずだ。
あのカレンダーはどこかに行ってしまったが、あの時見た数字を僕は着実に生きている。
2017年3月31日

 

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